大江匡衡(まさひら)
赤染衛門の旦那らしいけど。作中に出てないんやね。残念。
そもそも大江氏の歴史を見ると、歴史ファンにはちょっと面白い。
始まりは、桓武天皇10年に、土師諸上らに大枝の姓を与えた地点。これが、縁起が悪いとして読みはそのまま、大江になった。
まず本作、存在だけの大江匡衡。これはあとで詳細。
大江匡衡のひ孫が大江匡房(まさふさ)。こいつは、源義家*1に兵法を教えたらしい。とんでもねえ。
この大江匡衡のさらにひ孫に大江広元。全国の武衛にはお馴染みの源頼朝の側近*2。
この大江広元の4男・季光が、相模国毛利荘*3を領した結果名乗ったのが、かの有名な毛利家。
この家が最終的に長州藩として、幕末の動乱に、反幕府として立ち上がってるの面白すぎる*4。
また、どれくらい正しいか分からん家系図によれば、大江広元の5男・忠成の孫の孫の孫の孫娘が松平親氏との間に生んだ酒井広親は、酒井忠次*5の始祖*6。
つまり、松平(家臣団含む)の始祖でもある?
(訂正 2024-01-30)
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また、下記動画より引用
「酒井家の祖とされる酒井広親は一般的に松平親氏の子とされるが、『松平氏由緒書』では相婿の関係になっており、相婿の関係を縁に家臣となったのが実態なのであろう」
事実は小説よりも奇なり。
で、本編となる大江匡衡ですが
基本的には文化人としての活躍。
作中に出てこんあたり、政治的に重要なキャラではないですよね。
漢詩文として『江吏部集』、私家集として『匡衡朝臣集』が現存。
『後拾遺和歌集』は7首。それ以降の勅撰和歌集に5首採録。
清原元輔
清原氏って臣籍降下した皇族に下賜された氏なんですね。知らんかった。
姓(かばね)は真人(まさと)。
始まりは、天武天皇の子供の舎人親王の後胤(こういん)が多いらしい。
今回の清原元輔も、多分に漏れず舎人親王の後裔。そして、清少納言の親父。
『梨壺の五人』*7として、『万葉集』の読解と、『後撰和歌集』の編纂を行った。
986年に、79歳という高齢ながら肥後守*8に任じられて九州へ行く。
それが所以か、熊本市の清原神社に祭神として祀られている。
スーパー歌人らしく、
藤原公任の『三十六歌仙』や、藤原定家の『百人一首』に選ばれたり、『拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に106首が入集。
ちなみに、娘の清少納言の旦那である、橘則光の母親が、花山天皇の乳母。
*1:頼朝や義経の親父
*2:
*3:現在の神奈川県。鎌倉幕府の本拠地といっても差し支えない。
*4:さらに言えば、桂氏は毛利氏の分家らしい。なので、あの総理大臣の桂太郎は本姓・諱は大江清澄でもある。
*5:
*6:まあ、松平親氏以前の男系が、家康によって粉飾されてるという話らしいので、女系はどれくらい正しいのか何も情報がない
追記 2024-01-30
動画のスクショになります。下記引用元をクリック!
江戸時代(元禄年間以降?)に粉飾された様子。
その当時の話としては、松平は新田氏の傍流である、世良田氏の末裔が、三河・松平の地に根付いたこととされていた。それこそが、松平氏の祖である、松平親氏。
だが、親氏はどうも、元々いた松平氏の婿の様子。
『三河物語』や『松平氏由緒書』で、その詳細が記されている。
しかも、親氏の外祖父は、元々京にいた在原さんらしい。その人が三河に移ってきたのが始まりっぽい。
*7:
村上天皇の命により、平安御所七殿五舎の一つである昭陽舎に置かれた和歌所の寄人。昭陽舎に無しの気が植えられたことに由来する。
大中臣能宣
源順
清原元輔
坂上望城
紀時文
の5人
*8:現在の熊本県